SHIROBAKOと自分
自分が唯一胸を張ってファンであると公言できる作品はSHIROBAKOだけである。これほど感性が一致する作品に出会えることはなかなか無く、未だに今まで見たTVアニメ作品で最も面白い作品であり続けている。
別に他の人がどのような状態でファンと自称していても気にはならないが、自分がある作品のファンと公言するからには最低でも円盤を購入していたい気持ちがあり、人生で唯一円盤を揃えたアニメ作品がSHIROBAKOだった。
リアルタイムで追い続けた日々からTV版は数え切れないほど視聴し、スピンオフ作品も買い揃え、豊富なインタビュー量の設定資料集を読み、幸運なことにイベントにも数を忘れるほど参加させていただいた。
あれだけヒットした作品である、いずれ新作が出るであろうことは予想しつつも、スタッフの「やるべき時期が来たときにやりたい」という気持ちを感じまくっていたので、その時が来るまで待ち続けるだけだなと4年間思っていた。
そして武蔵野プレイス前広場で開催された春祭りにて、劇場版制作の発表があった。
ロフトプラスワンでのトークショーではなく久々のイベント、タイミング的にも間違いなく発表だと思っていたものの、実際に発表された瞬間の高揚は今でも覚えている。
劇場版SHIROBAKOの感想
今日を本当にずっと待ち望んでいた。とても楽しめた。並のアニメでは味わえないテンポ感がやはりSHIROBAKOには存在する。
大好きな世界が続いていて、人物たちがまた動いており、時が経った彼らの姿を見ることが出来ている、それらを考えるだけで作品への評価が上がっていくことを自覚させられた。
印象的だったのは本田さんが働いているケーキ屋に宮森とナベP(Pではないが…)が訪れた時、ケーキのショーケースを見ながら宮森が本田さんに対し発話をしたときの語尾が「~~~では?」だったこと。
このカジュアルな語尾はTV版の宮森と本田さんの関係性では絶対に出なかったセリフだと思う。初めは宮森にしては少し現代的というか、浮いたセリフだなと感じたものの、彼らが四年間TVシリーズから時を経て関係を紡ぎ合っているということを最も感じさせてくれたセリフで、一番グッと来てしまった。
他にも、最近偶然知人が撮影中のアニメのフィルムを沸騰させる動画を撮っていたのだが、木下監督の自宅で壁に投影された映像が燃えて消えるシーンがその動画とそっくりで、まず間違いなくその現象を意図して作られたシーンなのではないかとニヤニヤしたりしていた。
見終わった直後は非常にふわふわした気持ちになっていた。五年も待ち望んだ新作。スタッフロールの制作進行欄にラインPである相馬さんの名前があり過酷な現場だったことが伺えるなあとか、そんなことを考えながら、今見た劇場版はTV版の体験と比べてどうだったか?と考え始めていた。
そしてその後、劇場を出て友人と話しているうちに、自分が映画に抱いたいくつかの違和感が具体的になってきた。
そのうち一つは、TV版と劇場版を通じてSHIROBAKOが直面した作品的な限界なのではないかと今は思う。
一つ目として、作中冒頭で心が折れた状態の宮森が複数の人物の励ましを受けて立ち直っていく一連の流れが、かなり説教臭いものに感じてしまったこと。
理由の一つにはセリフの冗長さがあると思う。平岡のセリフの要素は一つ削って欲しかった。丸川社長のセリフも同様に長く感じた。
最初の三女2の露出過多な演出は制作陣が最近のアニメカルチャーに感じている違和感なのかもしれないが(この部分に関してはただの演出な可能性もあると思う)、劇場版ではこのように制作陣が抱えているであろうアニメ業界に対する課題意識が多数、キャラクターの口を通して出てくる。
尺の問題もあるとは思うが、こういったセリフがTV版では違和感を覚えないほど世界に溶け込んでいたものの、劇場版においては浮いてしまっているように感じたことが、説教臭さに繋がっていると感じている。
クライマックスのラストシーン作り直しも、一度見た限りでは制作中にスタッフ達が作品に不満を抱えていたという描写があまり成されないまま、突如ダビング終了後にテンションの上がらないまま解散するスタッフ、それに不安を覚える宮森が描かれ、作り直しの流れに繋がっていく。
正直あの部分は気持ちがついていけなかった。それぞれのシーンの接続が異様なほど上手く違和感を感じさせないのがSHIROBAKOという作品だったはずなのに、あの部分は「無理かもしれないけど最後までクオリティに拘ってもいいじゃないか」ということを主張するためだけに設置されたシーンのように感じてしまった。
後述するストーリーの本筋の致命的な問題による部分もあるとは思うが、あの部分でブチギレる遠藤さんのセリフにも上記の平岡や丸川社長のような間延び感、感情で喋っておらずストーリーの要素をセリフとして記述している感を抱いてしまった。
次に、制作発表時から劇場版で劇場版制作をやることは分かっていて(TVでTV版作ってたし)、堀川社長も「やる意義が出来たからこそ今のタイミングでやる」と仰っていたが、確かにどのように意義を感じているのかは前述のセリフ群に表れていたものの、劇場版SHIROBAKOとして求めていた形からはズレがあるなと視聴直後に感じてしまったこと。
具体的に、劇場版に期待していたことは劇場版アニメーションを作るSHIROBAKOのキャラクター達だった。しかし、劇中で作られていたものが劇場版アニメーションであるということが活かされたパートがあまりなかったように感じた。
これは実際そういうもので、TV版とあまり違いがないのかもしれない。もちろんただただ自分が見落としているだけかもしれない。しかし劇場版は基本的に人間関係をやる話になっていて(またしても尺の問題は大いにあると思う)、その要素が抜けているように感じてしまったのが勿体なかった。
権利関係で揉め事が起きるということ自体がそもそもTV版であまり起きないことで、それが最も劇場版らしい、スタッフが感じるアニメ業界の課題だったのかもしれない。
しかし、これは三つ目の違和感なのだが、大人と権利関係で揉めた後解決するという流れはTV版で既に消費してしまっている話なのではないか、ということを感じてしまった。
これに連なって、武蔵野アニメーションが凋落に追い込まれた原因も結局は現場ではなく上層部が原因だった(はず)。TV版では解決できたが解決できないこともある、という意図なのかもしれないが、TV版2クール目も、武蔵野アニメーションの凋落も、そして劇場版の大きな見せ場もその構造を描いている。
TV版で解決できた事象なのに、凋落してしまった原因を同じ構造に持ってきてしまうのは視聴者としてがっかりした気持ちになってしまった(もちろんそれぞれ異なる対象と起きた事象ではある)。加えて劇場版でも永谷プロデューサーがモデルの偉い人と権利で揉める。
それはもうTV版で描いてしまったストーリーなのではないか。揉めている対象が原作者や元の権利を持っている会社とそれぞれ異なるだけで、作品に本気な現場が彼らとは遠い離れたところにいる大人たちの思惑によってストップしてしまう。
それをなんとか乗り越える。そして完成に、という体験は、各キャラクターのエピソードを尺的に十分に取れたからかもしれないが、TV版の方が文句の付け所のない出来になっていると感じてしまった。
加えて、その乗り越えた先に待っているのはスタッフ達の冷めたテンション。前フリがあまり感じられなかったかもしれないが、ここで更に気持ち的に落とされてしまったため、非常に気持ちが躓いてしまった。
これが前述のSHIROBAKOの限界なのではないかと思った。作品制作に対してそれを止めざるを得ない理由をぶつけることでストーリーを展開させ、抑圧と解放を演出する。どうしてもストップの理由は現場ではなく原作者や権利関係など現場と関係のないものになってしまっている。
ファンサービスと上手く重ね合わせて、今作はメイン5人や遠藤さんに代表されるように武蔵野アニメーションのスタッフが再集合する過程を描くことで現場にも抑圧と解放の構造をより濃く存在させていた。そこは続編の形としてもファンサービスとしても良かったが、その後やはり現場は止まり、TV版と同じ流れが繰り返された。
劇場版は様々な面で不十分であったり、違和感を覚える要素が存在してしまっていた。TV版はそこがすべてクリアされていた。両者は同じストーリー構造として見ることができてしまう。同作品であるが故に比べてしまい、TV版という壁を体験として越えられなかった。
(2020-03-07追記) 2回目の視聴を終えた。
不思議なもので繰り返し見るほど作品がよく見えてくる。1回目は90/100点くらいかなーと思っていたが、2回目は体感93/100点くらいの出来だった。
ただ、本筋で不満を抱いていた部分はいくらか軽減されたものの、やはり上述の違和感は変わりなかった。加えて2回見ることで確信に至った違和感もいくつか発生した。
○冒頭TV版振り返りの第三飛行少女隊のカットで原作者NG前にルーシーが居る問題
これはコストの問題で仕方がなかったのかもしれないし、TV版を見ていない人のためのパートなので、ということでNG前の映像にルーシーが居たのかもしれない。
しかしTV版を見ていたファンにとっては結構気になるポイントだったのではないか。コストって言われたらしょうがないけど…。
○宮井の存在意義
新キャラ宮井が酒を飲むシーン以外あまり良さを発揮していなかったように思う。
辛い状況に置かれ、かつ普段から自分の感情を表に出さずに溜め込んで破滅しがちな宮森の愚痴を開放するイベントとしては非常に重要な朝まで荻窪だが、以降目立った活躍のシーンと言えばげ~ぺ~う~に乗り込むシーンのみである。しかしこのシーンも、後述の理由で宮井が唯一無二の活躍をしたとは感じられなかった。
スタジオで涙を流したり打ち合わせに同席してはいたが、元々キャラ数の多いアニメであるがゆえに存在感を発揮できていたようには思えない。もちろん上品な演技や振る舞いからの生ビールは良かったが、あのキャラクターに思い入れを感じられるだけの立ち位置は確立できていなかったように感じた。
○げ~ぺ~う~乗り込み
TV版では夜鷹書房に木下誠一が乗り込み見事な解決を見せたシーンに代わり、劇場版では宮森と宮井が和装でスジを通しに行くシーンが盛り込まれている。
率直に、このシーンはTV版の劣化版にしか感じられなかったし、SHIROBAKOの売りである現実とファンタジーのバランスが崩れてしまっているように感じた。
宮森と宮井というキャスティングは劇場版として正解のように思える。しかしあそこでスカッとジャパンをしたいのであれば行くべきは宮井ではなく葛城だ。
宮森と宮井が行くのではあまりにSHIROBAKOらしくないあざとさというか、冒頭のセクシー三女に近い狙いをやっているようにも感じてしまう。
本筋上抑圧を受け続け、プロデューサーとして作品を客に届けなければいけない宮森が参加するのは納得できる。しかし宮井である必要性は、新キャラであること以外にあるとは思えない。
TV版の乗り込みは木下誠一の持ち前のコミカルさや非現実的な立ち回りによって現実とファンタジーのバランスが成立していたが、劇場版はストレートに美少女2人を起用してしまったが故に「冗談」の要素が薄れ、シリアス一辺倒のシーンになってしまっている。
宮森と葛城のコンビであれば、冗談らしい笑いの要素を持ちつつもTV版のオマージュとしての立ち位置を変えず、本筋にも沿った展開になっていただろう。
制作陣がこれらのことを考えなかったとは思い難いので、宮井を起用したほうが良いと考えた理由が存在しているのだろうが、個人的には宮森と葛城に乗り込んでほしかった。
また、乗り込んだあとの戦闘描写がTV版では実際のビルだったのに対し、劇場版では視聴者としてはファンタジーに感じてしまう内装だったのも気になった。
モデルはPA本社なので間取りはある程度原作(?)に沿っているが、敵の服装を現代的な服装にし、畳ではなくPA本社を意識した内装にしたほうが現実とファンタジーのバランスは取れたように思う。
もちろん勢いで見せるカットなのである程度没入させる要素は重要だが、TV版では木下誠一以外バリバリに現実だということがバランスを維持する要素として大事だと感じていたので、ファンタジーに寄りすぎた演出が気になってしまった。
まとめ
スタッフの感じる課題意識は強度を高める要素として大いに働くと思うが、それをTV版のように、形が見えなくなるほど作品に溶け込ませてほしかった。
同じ種類のストーリーから得られる体験でTV版より濃い体験をすることは様々な面で難しいことだと思う。だからこそ違う土俵で違う形のSHIROBAKOを見せてほしかった。
同じ土俵で戦うなら尺が問題にならないくらいの超絶ストーリーが見たかった(ムチャクチャ言ってる自覚はあります)。
TV版で感じた細部に至るまでの感性の一致をもう一度味わいたかったものの、叶わなかったことがとても残念でした。
ですが、間違いない活力を与えていただきました。これはSHIROBAKOという作品だからだと思います。
制作に携わった方々、本当にお疲れさまでした。そしてSHIROBAKOをまた作っていただいてありがとうございました。